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三つの顔のうち、どれが主体かと聞かれたら間違いなく“I am a 営業マン”と答えますね。
僕は現役の営業マンであり続けることに誇りを持っています。だって大好きなんです!営業が。
ただ、営業マンという言葉にはしっくりきていません。すごく狭義の意味で、モノを売る人とそれを買う人という分類の仕方をするなら、僕は確かに営業マンなんでしょうけれど。
おそらく、多くの心ある営業職の方々も感じてらっしゃると思いますが、僕らはそんな画一的な関係じゃなく、何かこうパートナーシップのようなものを大切にしているんです。だから僕は営業マンでなく、お客様のパートナーでありたい。
“I am your partner”こちらの表現のほうが、僕にはしっくり馴染みます。気がつけば寝ても覚めても営業というか、お客様と深く関わりを持つ仕事で25年という月日が過ぎてきました。
内緒ですが……実は僕、一人でマクドナルドも吉野家も行けないんです(笑)。極度の人見知りで照れ屋なんです。街角でよく見かける営業マンは一人でファーストフード店に入り、ささっと昼食を取っているじゃないですか。
僕にはできない芸当ですから、見ていて実に羨ましい。僕の場合、一人のときは昼食を抜くか、勇気を振り絞ってコンビニに飛び込み、おにぎりを抱えていそいそと出てくるのが精一杯です。
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1997(平成9)年3月にソニー生命保険㈱ 京都中央支社のライフプランナーとなり、5年4カ月を経た2002(平成14)年6月、生命保険代理店に移行すると同時に「けんや塾」をスタートさせました。
けんや塾とは、生命保険事業者向け研修、寺子屋的な学びの場。一クラス約15~20人で毎月一回、3~4時間のセッションを行います。最初は有志のライフプランナーさんが10人ほど集まり、地元京都で小さなスタディグループとして発足しましたが、今では全国10カ所で約130人の方々が集われる大所帯になりました。
ソニー生命のライフプランナーさんが中心ですが、様々な生命保険会社の募集代理店さんなども参加いただき、とてもパワフルでエキサイティングな場になっています。
けんや塾に参加されている方々には共通点があります。それは、今さら他人から何かを習う必要のないトップクラスの方々ばかりが集まっているということです。
例えば、MDRTというという生保業界の成功者の指標ともいうべき会員組織がありますが、けんや塾メンバーの約7割はその常連登録者なのです。そんな彼らは口々にこう言います。「私なんかまだまだヒヨっ子です」と。悠然と大空を飛ぶ、イーグル(鷲)のような方々ばかりなのに。僕は心から彼らを尊敬しています。
僕ごときがそんな猛者にお教えできることなんて……と日々恐縮しきりですが、彼らと触れ合い、彼らの口から「う、うーん。なるほど……」と共感の声を引き出せた瞬間は、表現し難い喜びを感じることができます。塾頭って楽しい!と。
けんや塾が毎回同じメンバーを対象とした研修であるのに対し、セミナー講師は都度異なる100~200人規模の初対面の方々への講演です。この二つは似て非なり、全く別物です。
セミナーは話す側も聴く側も初顔合わせですし、それが最初で最後のお出逢いになるかもしれません。最も多いのは主催が生命保険会社さん、対象が募集代理店さんというもので、講演時間は1回2時間くらい。
さて、講演会には聴講者には認められ、講師には認められないことが3つあります。それは、「1.遅刻/欠席/退席、2.咳/声枯れ、3.相手を選べない」の3点です。1と2はそもそも論ですが、3に関しては…。
若い方が多いはずの想定が、中高年の方々ばかりだったり、初心者の方が中心と聞いていたのにベテラン、重鎮がズラリ前列に鎮座状態など、聴講者に関してはフタを開けてみるまでまったくわからず、ときに肝を冷やすこともあります。しかし、これがライブの面白さなんです。
いかに想定外のお顔ぶれが揃おうと、聴講者の皆さんには確実に僕の講演を楽しんでお帰りいただく。これは講師が果たす義務であり、聴講者への礼儀です。セミナー講師は一度ハマるとやめられないとまらない、「○っぱえびせん」のようなお仕事です。
セミナー講師として僕が大切にしていることを少しお話したいと思います。世阿弥(室町時代の能楽の大家。僕が崇拝している人物の一人です。)彼が伝書、「花鏡」に記した中から三つです。
一つは、「せぬ隙(ひま)が面白き」せぬ隙とは演技と演技の間(ま)のこと。動作と動作の間の、動いていない間(ま)を大切にせよという意味です。間を操ればこそ舞台は生きるのです。
二つは、「離見の見」離見の見とは、演者は観客席から自分の演ずる姿を客観的に見よということ。幽体離脱でもしない限り、現実には不可能ですが、そうしないといい舞台かどうかは確認できません。
三つは、「目前心後」目前心後とは、目は前を向いていても、心は後ろに置いておけということ。離見の見を具体的に実践するための手段として、自分を第三者的に見るための心の在り方を示しています。